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古川簡易裁判所 昭和33年(ろ)20号 判決

被告人 高橋[禾農]

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は「被告人は昭和三十二年六月十四日頃より志田郡鹿島台町船越字阿久戸所在竹谷江土地改良区排水機関場に運転者として勤務し同所に於て二百馬力デーゼルエンジン及びその他の附属機械の運転操作に従事中同年七月八日正午頃より右デーゼルエンジンの運転を開始したのであるが同エンジンに直結する遠心ポンプのベルトが弛緩して居り冷却水が不足となることが予測されるのであるから斯かる場合運転者たる者は常に補助タンクの水位が著しく下降することのない様絶えずその補給に努め以て冷却水不足に因る事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるにも拘らず之を怠り他の機械の操作に気をとられ同タンクに給水する事を失念して運転を継続したためエンジンの気筒上部の温度が上昇したのであるがそのうち同日午後三時三十分頃エンジン過熱の警戒ベルが鳴つた事に狼狽し急遽タンクに給水し冷却水を急激に多量注入した結果その熱広力に因り同エンジン第一気筒上部の燃焼室周囲壁に亀裂を生ぜしめ更にその後の継続運転に因り該亀裂を一層拡大させたため燃焼状況が愈々悪化し排気ガスの温度が著しく上昇し之に伴つて排気管の温度も又極度に上昇した結果同日午後十時十五分頃該排気管が壁を通過する部位にとりつけてある目鏡石を過熱しその上部に接する横木の下面に着火するに至つたのであるが更に壁の内部に燃え拡がつて火災となり因て人の現在する同機関場木造モルタル造り平屋建建坪七七、九坪一棟を全焼するに至らしめたものである」というのである。

被告人の検査官の面前における供述調書二通、鑑定人坪内為雄の鑑定書および同人の検察官の面前における供述調書を総合すると(一)被告人は公訴事実記載のとおりの業務を持つていたこと、(二)同記載の日時同記載のとおりの排水機関場の排水用エンジンの運転を開始したこと、(三)その二百馬力のエンジンは自動冷却装置になつていたが、井戸からのパイプの長さが二十間もあつて、水を吸い込む量が少ないので、別に冷却水補給用のタンクを設備し、モーターでそのタンクに水を入れておき、エンジンの水の不足分を補給するようになつていたこと、(四)当時自動冷却装置のポンプのベルトが緩んでいて、一層エンジンの水は不足し勝であつたこと、(五)被告人はエンジンの運転開始後、複雑な機械の操作に気をとられ、最初にタンクに水を満したのみで、補給することを忘れて、運転を継続したこと、(六)そのため冷却水が不足し、エンジンの気筒上部の温度が上昇し、公訴事実記載の時間頃エンジン過熱の警戒ベルが鳴つたので、被告人は急いでタンクに水を入れたこと、(七)熱せられたエンジン上部の気筒が急に冷却したため、第一気筒上部の燃焼室壁に亀裂を生じたこと、(八)被告人はそのことに気づかずして、そのまま長時間即ち午後十時頃まで運転を続けたため右亀裂は次第に発達拡大し、燃焼状況が愈々悪化し、内部の排気ガスの温度が著しく上昇、これに伴つて排気管の温度も上昇し、因つて排気管が建物の壁を通過する部位にとりつけてあるコンクリート製の目鏡石を過熱し、その上部に接する横木の下面に着火し、それが壁の内部に燃え払がつて本件火災となつたことが認定できる。

然しながら被告人に本件火災について失火の責任を負わせるには、なお被告人が右行為当時通常のこの種の機関運転者としての注意を怠らなかつたならば、本件火災の発生を予見し得たであろう場合でなければならない。

被告人が二百馬力のエンジンの運転を開始した後、補助給水タンクに水を入れるのを忘れたのが、本件火災の第一原因であることは前記認定のとおりであるが、その時誰が火災の結果を予見し得たであろうか。右エンジンは排水管の水温が高くなると警戒ベルが鳴る装置になつていて、本件の場合もタンクの水が不足してエンジンの排気ガスの温度が上昇し排水管内の水温が高くなつた時警戒ベルが鳴つたのである。ベルが鳴つたらエンジンが過熱の状態であり、水が不足していると察知して、特別の事情がない限りその時給水すれば足る訳で、そのための警戒ベルである。証人坪内為雄の証言にもあるとおり通常のこの種の機関士としては警戒ベルに頼つて安心しているのをとがめることはできないと思う。なお本件火災は後記の如く特殊の経緯によつて生じたもので、通常の機関士としてはその知識経験その時の状況等からの注意を十分払つたとしても警戒ベルの鳴る以前に火災の発生を予見することはできなかつたといわねばならぬ。(本件火災直前エンジンが過熱の状態になつても警戒ベルが鳴らなかつた、従つてこれに頼ることは危険ではないかとの疑も起きるが、証人坪内為雄の証言にもあるとおりこれは偶然気筒中に空気が入つて温度計が露出する結果となり、ベルが鳴らなかつた特種の場合で、火災発生後厳密な科学的吟味を経て判明したもので、事前にこれを察知することは不能に近い。これを以て通常の機関士が警戒ベルに頼つて安心していることの妨げとはならないと考える。)

次に警戒ベルが鳴つた時被告人が急にタンクに水を入れたためエンジンの第一気筒上部の燃焼室壁に亀裂が生じそのまま長時間運転を継続したことが本件火災の第二原因であることは前記認定のとおりであるが、この場合機関士として水不足と察知して給水するより外にどんなことができるか。証人坪内為雄の証言中機械を止めて自然に冷却するまで待つのも一方法と述べているが、本件排水機関場は水田の冠水の際その水をポンプで吸い上げ、川に流す使命を有するもので、排水が遅れると刻一刻損害が増大することを知つている機関士に、そんな悠長な処置を期待することは不能である。鑑定人坪内為雄の鑑定書ならびに同人の証言によれば、(イ)普通の場合はベルが鳴つたら水を入れたらよい。が、本件の場合は特種な場合で、急速に冷却されたため第一気筒の燃焼室壁に亀裂が生じたもので、一般には気筒の設計に当つては高温から急冷する場合の熱広力をも考慮してあるのだが、本件では通常運転では起らぬ程の強大な熱広力を生じ、これに因り燃焼室壁に亀裂を生じた稀な例である。(ロ)通常の機関士は過熱したエンジンに急速に水を注入すると気筒に亀裂を生ずると予見する能力はないし、又気筒に亀裂を生じたら排気ガスが非常に高温になり火災となるおそれがあると予見する能力もない。(ハ)本件火災は排気管が通過する目鏡石の構造の欠陥がなければ起らなかつた等の事実が認定できる。この事実と被告人の検察官の面前における供述調書(昭和三十三年五月十九日付)中の警戒ベルが鳴らなくなつて後排気管を廻つて出てくる冷却水の温度は丁度入浴に適する程度のものであつた旨の供述記載や証人加藤寛の火災のあつた日の夕方機械には何等異状を認めなかつた旨の供述を総合すれば、被告人が警戒ベルを聞いてタンクに水を補給したときも、その後エンジンの運転を継続した際も、いづれも、通常の機関士の注意を払つたとしても火災の発生を予見し得なかつたものと解する。

以上検討したところを以てすれば、いづれにしても、本件公訴事実につき被告人は罪とならないものというべく、刑事訴訟法第三百三十六条前段により主文のとおり判決する。

(裁判官 秋山五郎)

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